遠藤周作というとユーモラスな話を書く人、という印象があるが、本職(?)はキリスト教作家。いやその肩書もどうかと思うが。
スコセッシが映画化したのが何年前だったか、評判になったよね。
いや、うん、見てないんだが。
非常に重い。苦しい。でも面白い!
この面白さは、もうね、宗教を刷り込まれて持っていた経験を持つわたしにとっては*1ものすごいあれこれ思い悩みながらページを繰ったよ。
キリスト教弾圧は歴史の授業なんかでも習うから、なんとなく知識として知ってはいる人も多いと思うが、信仰を持っている人にとっては、あえて宗教の種類や宗派関係なく、と書くけど、「転ぶ」ことは死ぬより恥ずかしいことなんだよ、文字通り。
今はおかげさまで自由の身っていうか思想の自由を手に入れているから、形だけでも踏めばいいじゃん!転ぶって言えばいいじゃん!って思えるけど、殉教する人々の気持ちも正直痛いほどわかる。
責められれば責められるほど奮い立つし、諭されれば諭されるほど頑なになる。
「信じる」って、ある意味そういうことだしね*2。
神はいるかいないかと問われれば、陳腐だがあなたの心の中におわすと答える。
神の姿も信仰の形も自分次第。
組織を作って徒党を組んで信じなきゃいけない神ってなんだろね。
今の世でしいてそれに値するものを挙げるなら、金かな。
徳を積むのか得を積むのか、それを積んで積んで積み立てた先に、なにがあるんだろうね。
わからないこと、知り得ないこと、苦しくて悲しくて、どうにもならないこと。
生きていくうえでそういったものばかりが山積みだった時代には、神は貴重な存在だったろうと思える。
とりあえずそこに投げておけば、あとは無邪気に信じてればいいからさ。
でもそういったものごとがだんだん解明され、つまびらかにされ、苦しい悲しい人にはやさしく余裕のあるだれかが手を差し伸べ、どう考えても大多数の人々は300年前と比べりゃ幸福に生きてる。
幸せな人が増えれば不幸で苦しんでる人にさらに救いを与える余裕もできるわけで、さてこの先宗教の意義はあるんだろうか。
心の救済ってわけで、余裕のあり過ぎる人は逆にはまっていくのかもしれないけど。
ほんとうに、いつもいつも、宗教を奉じていた子供のころから考えていたことがあって。
なぜ徒党を組まねばならないのか。
なぜ信じて祈っている姿を誰かに見せねばならないのか。
神がいるとするならば、ひとりひとりの心の中に。
そこで神を愛そうが罵ろうが、信じようが蹴とばそうが完全に自由だ。
どれだけの熱量でかの人を求めても、かの人は何も言わない。
沈黙、名著です。
テーマが難しかったから実現しなかったそうだけど、なるほどノーベル賞取ってても全然おかしくない。
わたしは「子供のころから宗教を持っていた仲間」としてものすっごい共感の嵐で読んだけど、そういう感情を知らない人にとっては理解できない部分も多いのかも。
それでも、時代や人種を越えて共感できうる部分があるからこそいまだに読まれるんだろうな。
その時代における人間心理の核に迫った、リアルと創作が絶妙にブレンドされた、すばらしい作品でした。
宗教に関しては書くと本当に長くなるので、2世関連の話とかも書きたいし、いずれ本家でなんか書きます。予定は未定。